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There is no second.

1851年、イギリスは世界初の万国博覧会で賑わっていた。当時イギリスは18世紀半ばの産業革命以来の発展を続け、工業先進国としての圧倒的な地位を築き、「世界工場」として世界市場に君臨していた。その象徴の一つが万国博覧会の開催だったのである。

ロイヤル・ヨット・スコードロンは、この万国博覧会を記念してヨットレース企画し、新興国アメリカもレースの参加を呼びかけた。アメリカの中心となったのが、1884年設立のニューヨーク・ヨットクラブである。メンバーはロヤル・ヨット・スコードロンの誘いを「挑戦」と見なし、応じることにした。背景には、アメリカの造船技術の高さをイギリスに誇示しようとする、アメリカ人の対抗意識があったはずである。中心になったのはクラブの会長ジョン・C ・スチーブンスと5人のクラブ・メンバーたち。彼らは早速、シンジケートを結成し、ヨット〈アメリカ〉の建造に取りかかった。ロヤル・ヨット・スコードロンが企画したのは、ホワイト島一周レースだった。ニューヨーク・ヨットクラブ〈アメリカ〉ただ1隻の参加だが、対するスコードロン側からは15隻のヨットが、周囲約83キロを右回りに一周してスピードを競うレースである。1851年8月22日、衆目監視の中、スタートを切った〈アメリカ〉は評判どうり快速ぶりを見せつけた。15隻のイギリス艇を尻目に圧倒的な差をつけ一位になってしまったのである。

この時、ヴィクトリア女王が発した言葉がきっかけになって、その後のアメリカズカップを象徴するフレーズが生まれたと言われている。見守る女王に、レースの経過を逐一報告していた侍従は言った。「陛下、〈アメリカ〉 が先頭でございます」「では、二位は?」と女王が下問されると、「陛下、二位はおりません(Your Majesty,ther is no second,)」という返事が返ってきたというエピソードである。エピソードの真偽のほどは定かでない。だが、後にこの「Ther is no second.という言葉が、一艇対一艇で戦うマッチレースとしてのアメリカズカップを象徴する言葉として一人歩きするようになった。

ともあれ、カップを持ち帰ったニューヨーク・ヨットクラブのスチーブンたちは、彼らの快挙を何らかの形で後世に伝えたいと考えた。そこで、獲得したカップをニューヨーク・ヨットクラブに寄贈し、これをかけた国際的なヨットレースを開催することにしたのである。この時からこのカップを、〈アメリカ〉が獲得したカップとして「アメリカズカップ」と称するようになった。同時に、カップ寄贈にあたって、スチーブンたちはレース、にいくつかの条件をちけた。これが『寄贈証書』(Deed of gift)と呼ばれる文書で、今ではアメリカズカップの憲法とまで言われている。

一方、1851年の敗北で面目丸つぶれになったイギリスは、アメリカに挑戦を申し込んだ。しかし、南北戦争などの事情で、イギリスが〈カンブリア〉というヨットでアメリカに挑戦できたのは1870年のことであった。これが、アメリカズカップをアメリカから自国に持ち帰ろうする挑戦者達の歴史が始まったのである。


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