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イギリスの挑戦

当時の超大国であり海洋国でもあるイギリスの面目は、1851年の敗北で丸つぶれとなった。

そこで、カップを奪還すべくアメリカに挑戦を申し込むのだが、レースは1870年まで待たなければならなかった。この間、アメリカは南北戦争が勃発し、ヨットレースどころではなかったのである。

1870年になって、ようやくイギリスは「ガンブリア」というヨットでアメリカに乗り込むことができた。

これがアメリカズカップとしては第1回の大会となる。マメリカ側は1隻の「ガンブリア」に対し十八隻のヨットで迎え撃つことになった。結果は「ガンブリア」の大敗に終わった。この時からアメリカズカップを自国のイギリスにアメリカから持ち帰ろうとする挑戦者の歴史が始まったのである。

翌1871年名は、再び英国の「ライボニア」がアメリカズカップに挑戦するが、これも1勝しただけで大敗した。しかし、この大会で特筆されるのは、アメリカズカップが一対一のマッチレースで戦われるようになったことだろう。

colse2 現在、アメリカズカップはマッチレースの代名詞のようにいわれているが、その根拠は先の『贈与証書』による。『贈与証書』は再三にわたって改訂されているが、1857年に書かれた最初のの文面に、『いかなる国の、いかなるヨットクラブ組織もこのカップの争奪をかけてのセーリング・マッチに出場の権利を有する』と明記されていた。この文面を盾にとり、「ライボニア」のオーナー、アシュベリはこの大会からマッチレースで戦うことをニューヨーク・ヨットクラブ側に認めさせた。その時点で、現在のアメリカズカップの基本パターンが確立されたわけである。

レースは一対一で戦うことになったのだが、アメリカ側の防衛艇は複数用意され、レース当日のコンディションに合わせてヨット選ぶことにしていたので、完璧な意味でのマッチレースとはまだまだ言えなかった。

第3回アメリカズカップは、初めてイギリス以外の国からの挑戦となった。カナダのロイヤル・カナディアン・ヨットクラブの「カウンテス・オブ・ダフェリン」というヨットである。カナダは第4回大会にも「アトランタ」で挑戦している。だが、レース内容はともに惨敗と言うべきものだった。

しかし、アメリカズカップがイギリス対アメリカという2カ国間のプライベートなヨットレースから、国際レースとして注目されるようになったのがこの頃からである。

また、第4回大会のアメリカ側防衛艇「ミスチーフ」、そして「アタランタ」ともに、1本マストの近代ヨットの帆装形式を備えていた。アメリカズカップは、常にその時代の最先端のヨットを使用するという意識が芽生えはじめたのもこの頃である。しかしカナダの3回目の挑戦はこの後しばらく見られず、第二次世界大戦の後まで待たなければならなかった。1885年の第5回大会は、再びイギリスからの挑戦となった。

その前に例の『贈与証書』が改訂されている。改訂のポイントは(1)防衛艇はシリーズを通して同じヨットであること。 (2)挑戦艇はレースの行われる国まで自力回航すること。 (3)1度シリーズに敗れたヨットは2年間は再び挑戦せきない。 (4)挑戦は6カ月前に予告されねばならないなどである。このように少しずつルール方も近代的になってきた。しかし、(2)挑戦艇はレースの行われる国まで自力回航しなけければならないという項目は、挑戦艇にとっては大きなハンディキャプだ。大西洋を渡るだけの装備を備えたヨットと、湾内あるいはそれほど沖へ出ないヨット、レース用のヨットでは性格が大きく異なり、おのずから装備にも違いが出てくる。これが後世には問題になるにだが、「アメリカズカップのルールは防衛側のアメリカに有利にできている。」としばし言われるのもこの歴史を見ると頷けなくない。

さて、第5回大会にイギリスから挑戦したのは「ジェネスタ」だった。4レースが予定されていたが、第1レースでアメリカ側の防衛艇「ピューリタン」が「ジェネスタ」に接触。レース委員会によって、失格を宣せられた。「ジェネスタ」は制限時間内に単独でコースを完走するなら勝利を与えられると言われたが、「ジェネスタ」側はそれを潔ともせず申し入れを断り、レースは再レースとなった。この「ジェネスタ」側のスポーツマンとしての好ましい態度はアメリカ人たちを大いに喜ばせたという。続く第2レースは、無風のため中止となり、結局2レースで決着をつけることになったのだが、「ピューリタン」が2連勝を果たし、アメリカ側のカップ防衛はあっさり決まってしまった。


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