アメリカスカップ 3月3日

 カップが動いた理由
アリンギが勝ち、カップがスイスへ行くことが決まった翌日、オークランドは何事もなかったかのような静かな朝を迎えました。しかし、新聞やテレビではカップがなくなったという事実よりも、カップを取り返すという論調で話が進んでおり、ヘレン・クラーク総理大臣も新たなるチャレンジをサポートする意向を発表しています。95年にカップを獲得した時を思い出し、もう一度チャレンジをしよう。負けないチームを作ろう。負けた直後からの非常にポジティブな姿勢に驚きました。

では、チームニュージーランドは何故負けたのでしょうか。いろいろな考え方がありますから、ここでは私なりの分析だと思ってください。まず、今回のアメリカスカップは95年にカップを獲得し、2000年にカップをディフェンスしたチームニュージーランドがAチームであるアリンギとBチームであるチームニュージーランドに分裂して、ニュージーランド人どうしで戦っていたと私は思います。

Aチームはスイスという資金豊富なスポンサーを得て、クーツだけでなくチームニュージーランドでキーになっていたトリマー(フルーリー、ドウブニー、ブザード)、タクティシャン(バタワース、ジョーンズ)、バウマン(フィップス)を獲得することができました。また、その他のメンバーもACボート経験者のヨーロッパ人や北米人から集めることができました。たぶん、レギュラーメンバーの中で初出場はナビゲーターをつとめたシンジケートヘッドのベルタレーリくらいではないでしょうか。ベルタレーリはそれほどの技量をもったセーラーではありませんから、ナビゲーション機器の設定からチェックまでオーストラリア人のケイプが担当していました。クーツは15カ国の人間といいますが、トップレベルの必要な人材を豊富な資金で集めることができたのが、アリンギの勝因の一つです。これにはウエザーチームの9名(7名がニュージーランド人、カナダ人1名とスイス人1名)も含まれています。

Aチームのボート建造についても、チームニュージーランドのキーメンバーがいるため、ニュージーランドがカップをディフェンスしたチームが持っていたノウハウを使ってスタートしていますから、ゲームの進め方を心得ていますし、ディフェンスをするチームニュージーランドを最も理解できていたチャレンジャーになることができました。デザイナーのフロリックやコーディネイターのシマーは過去に何度もルイヴィトンカップに挑戦してきたシンジケートで設計に携わってきていましたが、今回は全く違うアプローチだったといいます。彼らはクーツと同じチームに入ったことにより、チームニュージーランドのアプローチの仕方を知り、そこからアリンギチャレンジを始めることができました。アリンギのボートはクーツが作りたかった艇をデザインチームが設計し、建造したといってよいと思います。デザインチームで印象に残ったのは2号艇であるSUI75の扱いでした。アメリカスカップが始まってから2日目に2号艇が走っている姿を見て、引き波が出る場所や水線長の長さが気になり、次の出艇の時にスターンの横から下を覗き込んでみたのですが、フラがついているとはいいませんが、フラがついた格好をしていました。ホローがあってはならない場所が膨らんでいるわけで、アリンギは2号艇を計測していませんでした。トライアルホースとはよくいうもので、チームニュージーランドがフラを開発していることを知っていたクーツはフラがついた艇がどのくらい速いのかを想定しながら自分のレース艇を調整することができていたのです。チャレンジャーファイナルの時の艇公開でチームニュージーランドの動向を見ていたアリンギはフラがついているか、いないかをチェックするのではなく、フラをつけて水線長が長い艇を作るのか、フラを利用して短い水線長のヨットを作ってもルールどおりの艇と同じ長さを使えるものにし、その分レーティングで得する分をセールエリアを増やすのに使うのか。フラをどう利用するのかをチェックしていました。得た結論はセールエリアを増やしているとし、アリンギはチャレンジャーファイナルが終わった後にマッチさせるためにバウを改造して、セールエリアを増やせるようにしました。こうした敵とのかけひきは、クーツならではのものです。クーツは数値解析の分野でもチームニュージーランドからエンジニアを連れてきていましたから。アリンギは予選を勝ち抜くために強靭なハルやスパーが必要でしたし、そのためには耐久テストをしていくことが必要でした。マストひとつをとっても2本作ってから十分なテスト時間をへて、レース用の2本を作ってきています。

Aチームのセールプログラムも強かったと思います。この部分はトリマーのドウブニーやフルーリー、ブザードの力も大きいと思いますが、ノースセールがネバダに3DLの工場を作った時、プログラムを立ち上げていったのは若いスイス人だったことを思い出します。今回もクラマー、シュレイバーというセールデザイナーが担当していましたが、細かい計算仕事はスイス人のほうがニュージーランド人よりも的確なのかもしれません。スクエアートップのメンセール、ステイスル、コードゼロ、ラフの長いスピン。レースでの展開を考えたセール作りは見事でした。

Aチームはルイヴィトンカップの予選からファイナルまで、一番試合数の少ないシードでチャレンジャーになりました。適度なレース数と改造する時間、練習をしながらレースでテストするという効率の良いスケジュールの中に緊迫したマッチすることで新しいチームとして経験を積み上げていくことができました。

まとめると、クーツがチームニュージーランドに勝とうと思って練り上げたプランを、几帳面なスイス式マネジメントで実行し、豊富な資金を使ってベストと思われる人材とハードウエアーを買いそろえ、それを効率よく動かすソフトウエアーを構築したということになります。これはプロスポーツの原理をそのまま用いただけですが、チームニュージーランド2000のノウハウを選手つきのパッケージで買うことができたベルタレーリの勝利なのでしょう。初挑戦とはいえ、世界1のACチームからキーメンバーを引き抜いたわけですから、母体になったのはチームニュージーランド2000です。

次に本家チームニュージーランドですが、2000年3月2日にカップ防衛に成功した後、5月19日にクーツとバタワースがアリンギにいくことが発表され、2000年メンバーの30数名がアリンギ、ワンワールド、オラクルといった資金豊富なシンジケートに引き抜かれてしまいました。スタメンの殆どがいなくなり、2000年の最終レースで舵を持ったディーン・バーカーがスキッパーになり、トム・シュナッケンバーグとロス・ブラックマンのリーダーシップのもとに、新生チームニュージーランドのメンバーが7月にワイヒヒ島に終結してチームの建て直しを議論しました。この時の様子をブラックマンは、「カップを防衛したハッピーな気持ちが、崩壊という危機で不安に変わり、やがてそれはクーツとバタワースに対する怒りに変化した。このぶつけようのない怒りはカップを防衛しようという決心にかわり、チームニュージーランドが再生した。」と表現していました。ごっそり抜けたチームの穴を海外からも人材を集めて補強しましたし、スポンサーシップで集める資金もニュージーランドだけでなく、外国からの資金も調達することに成功しました。

チームニュージーランドは世界1のマッチレーサーを相手に勝たなければならないという宿命を背負った若いチームでしたから、相手よりも速い艇を作ることが必要でした。5戦を終えて5−0という結果が出た後、シュナッケンバーグは、ディフェンダーとして、今回のチャレンジャーがどれくらいレベルアップしてくるのかという判断を誤ったかもしれないと話しています。また、チームニュージーランド2000を基本にアメリカスカップ防衛を考えた時に、2000年のレースのイメージが強すぎて、レースコンディションも特定の風域にしぼりすぎた傾向がありました。

速い艇を作ることに目標を設定し、フラを開発したまでは良かったのですが、そのために計測などでとられた時間も多く、新しいリグとセールのテストや高い風域でのセーリング練習はあまりてきていませんでした。ここらにチャレンジャーシリーズは吹くけれど、本戦は吹かないという2000年の印象が残りすぎていたのだと思います。また、バーカーがマストが折れてリタイアした4戦の後の記者会見で、「致命的なギアトラブルは許されなかった。荒れてきたら、壊さずに走ることが必要だった。」と、壊すまでプッシュするという耐久テストができていないことを話しています。ちなみに、新艇が進水する前に2000年の艇で練習している最中、25ノットのスコールがきて、ミレニアムリグのマストを1本折っていますが、その時に舵をもっていたのはパセでした。その他にも2回リグを破損しています。

チャレンジャーシリーズが始まってからはチャレンジャーのレベルが前回と比べるとかなり高いことがわかりました。時間を使ってフルに練習を繰り返していきましたが、セーリグチームの経験はどうしようもありません。ディーン・バーカーはフランスから加入したベルトラン・パセをスターティングヘルムスマンにして・・・というプランももっていたようですが、対クーツということを考えると、自ら外国人を起用するという作戦はあっても実行できるものではありませんでした。結局、パセ登場は世論が先に望んだものとなり、3戦落とした後にパセ導入となりました。バーカーはスキッパーとなってチームニュージーランドを率いて戦うことになってから、常に自分がスキッパーで大丈夫なのかという不安と戦いながらカップ本戦に望んだわけで、2000年の最終レースの舵を持った時の勢いはありませんでした。リードして走れていた第2戦をものにしていたなら、自信をもって後半を戦えたかもしれませんが、あのレースでアリンギに逆転され、その後のチームの運命を決定的にしたのかもしれません。抜かれるかもしれないという不安を打ち消すことができなくなってしまっていたのです。ヨットレースでは心理的な作用が大きいですから。セーラーの経験という点ではACボートでの実践不足というのが致命的でした。2000年のチームは95年のサンディエゴからのチームですからディフェンス側のレースシリーズがなくても大丈夫でしたが、新生チームはACボートでプレッシャーのかかったレースの経験が殆どありませんでした。これはスタートでラインに対する加速の距離と時間の判断やセール選択、天気情報の解釈、レースプランを短い時間でまとめなければならないのに、後手後手となる結果になりました。世論は強いチームニュージーランドをイメージしていましたが、セーラー達はかなりの不安と戦っていたことが現実です。

デザインチームは速い艇をつくることにとことんこだわったため、追求しすぎて壊れやすいものを作ってしまったと思います。25ノットの風でレースはしないだろうという楽観的な発想もあったかもしれませんし、北東の風でできるハウラキ湾の波を考えの中からはじきだしていたのかもしれません。しかし、他が持たない発想をもった素晴らしいデザインチームですから、次も挑戦するのであれば、また何か突拍子もないことを考えてくるのではないかと期待することにかわりはありません。

チームニュージーランドが今回建造した艇は速いデザインだったかもしれませんが、実践でのプッシュが足りなく、耐久面でのテストが十分にされないままレースになったのが敗因の大きな部分です。また、速い艇があれば乗り手の技量がカバーできるというのは成り立たず、速い艇を作るためには技術の高い乗り手が必要だということでしょう。経験のなさは今回のマイナスでしたが、今回の経験が今後のプラスになるという意味で、チームニュージーランドはAチームのアリンギに力量が足りずに負けたと考えます。

アリンギは強いチームで、カップのウイナーです。次のレースではアリンギを目標に勝つためのプランを設定しなければなりませんから、どのシンジケートにとっても相当厳しいチャレンジになることでしょう。カップはヨーロッパへ行き、次の挑戦はゴールデンゲートヨットクラブ(サンフランシスコ)から提出されています。3月4日にプロトコールが発表されるまで、正確なことはわかりませんが、セイラーや設計者の国籍問題がなくなること、カップのエントリーフィーが非常に高額となり、スポンサーが集まらないシンジケートのためにエントリーしてから90日以内なら取りやめができること。そんな話が聞こえてきています。カップの今後については、また正式な発表があってからまとめたいと思います。

95年にチームニュージーランドがアメリカスカップを獲得した時、国民的英雄になったラッセル・クーツは「このカップが少なくとも25年はニュージーランドに残るように、自分はカップを防衛していきたい。」とスピーチしています。クーツに裏切られた気持ちが強いニュージーランドのカップファン達は、「さっさと出て行け」というしらけた目でスイスチャレンジとアメリカスカップに別れを告げました。次のレースがいつ、どこで開催されるのか、決定するのは7ヶ月先になるのではないでしょうか。ヨーロッパのどこかであるということしか今はわかりません。
(オークランドにて)




アリンギとチームニュージーランドはベースキャンプも隣どおし。



「アメリカスカップを見るサイト」
http://www.americascup.yahoo.com
ここへ接続し、 Results で成績を見てください。

文・写真:斉藤愛子

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